新卒1年目で10か月休職した私がやったこと(てきとう)
復職間近なので書く。だれかの参考までに。
順を追って書いてみる。
はじめに、心配してくれた家族と、心配して会ってくれた友達と先輩方、本当にありがとうございました。
新卒半年で「適応障害」に
去年の10月頭ごろ、積もり積もって体調と精神が悪くなり(主に腹)、「適応障害」と診断され、休職した。このとき、主治医の診断書を持って行った。引継ぎも何もせず即、お休みになった。
制度的には「病気休暇」という形(有給のようなもの)で12月頭までまず休んだ。この間、月に1回産業医と面談し、また主治医の診察を受け、復帰可能かを判断してもらって、それを課に報告した。主治医の判断、というより、ほぼこちらの希望を伝える感じだった。私が「まだ復帰できる自信がありません」というと、主治医も「休養を要する」旨の診断書を更新してくれた。
精神がぼろぼろ
会社を休みたてのころは、布団から全く動けないことがよくあった。これはみんななるらしい。東京の一人暮らしの家から田舎の実家に新幹線で帰り、寝ていた。幸い親は適応障害に理解があり、咎めることなく休ませてもらえた。実は6月くらいからだんだんしんどくなっていて、親や友達には「つらい」とラインしていた。
10月ごろには毎晩と毎朝が憂鬱で、昼間は仕事中にトイレに逃げては友達に「ヴォエ(吐く)」とラインしていた。仕事が終わって夜になると、次の日の仕事がいやすぎて腹が痛くなり(というかひどい胃もたれみたいなのでずっと腹に重い石がのっているみたいだった)、朝起きれば会社に行きたくなくて、ぎりぎりまで布団でうずくまり、ぎりぎりになって家を飛び出ていた。5月ごろはセブンで朝飯を買って食っていたものの、このころは腹が重すぎて、何も入らなかった。かろうじてウィダーだけは飲めたので、まとめ買いして会社のデスクに入れていた。先輩はそれを見て笑っていて、俺もなんとか笑い返していた(悪い先輩ではない)。
『言の葉の庭』という作品がある。登場人物のヒロインは、鬱を抱える学校教師で、通勤をさぼって新宿公園の東屋でビールとチョコを食べているときに主人公と出会うシーンがあった。
「それしか味がわからない」と彼女は言っていた。
そんな馬鹿な、と当時は思った。しかし今は理解できる。味がなくなる、とまではいかないが、食事が美味しくなくなった。好きなものの味だけが確かに分かった。
仕事が終わるとなんとか外食して、家変えればだいたいベットに横になっていた。自然と涙がでた。幸い12時になると、強迫観念か何かしらで寝れはした。不眠になっていたらもっとひどいことになっていただろう。
メンタルクリニックの予約が取れない
東京はマジでメンクリの数が多い。しかし、予約が簡単に取れない。まず夜18時に閉まるところばっかりで、仕事終わりに行けなかった。
そんな中見つけたのが、ゆうメンタルクリニックだ。ここはとにかくすぐ予約が取れるので、いける病院がない人はいってみてほしい。というのも、診察時間が5分程度と短く、患者をばんばん捌くからだ(と思う)。短いといっても、精神がボロボロになっているひとは、そんなに長くぺらぺらとしゃべれないだろうし、こんくらいでいいかと自分は思う。たくさん話す元気がなかった。私は、胃がきついことと、気分がきついことを話し、胃の粘膜の薬と、気分が上がる薬をもらったが、どちらも効果を感じなくて、後々は服薬なしになった。
実家から東京の主治医にかかるのはかなり不便だった。とはいっても、私の担当の先生はかなりいい先生だったので、実家の近くで医者を探す気にもならなかったし、会社の近くに病院があったほうがいいとも思ったし、これは難しかった。どうすればよかったんだろう。
趣味と意欲が減る
もともと楽器をやっていて、社会人になっても絶対続けるだろうと思っていたが、適応障害になってから全く触っていない。楽器への興味がなくなってしまった。また、会社も楽器関連の芸能系の会社に入ったので、会社への興味もなくなってしまったらしい。
つまり、仕事への興味がなくなってしまった。芸能関係の仕事がやりたくて入ったのに、芸能への興味がなくなったのだ。月2くらいでイベントを見に行ってたし、東京はイベントが多いことも楽しみにして上京したのに、意味がなくなってしまった。
休み始めて2か月くらいして、だんだんと精神が回復していった。あれがやりたい、と思えるようになった。親が連れて行ってくれた温泉にはまって、平日にもひとりで運転していってみた。また、適応障害についての本も読んでみたが、あまりしっくりこなかった。
そもそもなんで適応障害に?
何がストレスだったのだろうと考えると、答えは明白で、「上司Aと馬が合わなかった」ことだ。他にも会社や業界の古い体質(芸能関係に起因する?)や、営業課のやり方に疑問を持ったり、残業時間が20時間くらい引かれたりと細かいことはあったが、一番の理由は上司の存在だった。
ここまで見ると、それだけ?と思う人がいるかもしれない。本当にそれだけだ。課の同僚や先輩はいい人だったし、上司もいい人だった。むしろAさんは、仕事もでき、考え方も論理的で、適度にドライで、私のなかで理想的な上司だった。
しかし、入社して1か月半くらいたった5月のことだった。担当のとあるお客さんとの間に不慮的な問題が起きた。ぺーぺーの私が対応するわけだが、こういう事故の時、右も左もわからない訳なので、基本上司(この上司はB)の指示に従いながら対応した。ところが、対応の後半でAが私にキレた。Bさんの指示に従って動いていた私は、理不尽さを感じずにはいられなかった。このとき運悪く、Bさんは体調を崩して何日か休んでいた。Aさんは「とにかく先方に連絡を取れ!、取れ!」と私を急かした。夜21時を過ぎた日もあった。こんな時間に電話しても先方も対応できないだろうと思いながら、ひぃひぃと電話をかけて、アポをとった。
なんとか事態が収まったあと、今度は問題の報告書を作らねばならなかった。このとき、経理の主任からいきなりお怒りの電話が飛んできたり、当のAさんからは「こういうこと、よくあるよ」と笑って言われたり、訂正した書類をもってった総務の課長には「この書き方だと君のミスとして処理されるよ?」と言われたり(そんなこと言われても、「こういう風な文言で」とAさんから指示があったし、私も他に書き方を知らないのでどうしようもない)して、涙目になりながら事後処理をした。
6月ごろ、新人が担当するイベントがあり、その準備でやや忙しかった。初めてやる書類作りやグッズの発注で、残業も(ほんと)そこそこにした。Bさんが休んでいたこともあって、始動が遅くなり、その分巻き返しをしている体だった。ところがある日、Aさんに呼び出され、残業時間について指摘された。会社から特に指示を受けていなかったので、私は定時以外の時間はすべて残業時間に計算していた。朝は「新人は先輩方よりも早く来るように」と言われていたし(これ自体はまあ受け入れた)、事務所のオープニング作業があったので、朝も10分くらいで遠慮して計上していた。エクセルで記録をしていたので、それを見せた。すると、Aさんから
「・まず、朝の時間はカウントしない
・夜は最近イベントの準備で残業している。これは始動が遅かったため、例年では定時内に収められる。また君の実際の仕事量はこれくらいだろう
」
ということで残業時間を10時間分くらい減らされたのだった。
もちろん、世間ではもっとひどい会社もあろうが、私にはかなり堪えた。そもそも残業なんてまっぴらだし、定時内で頑張っても終わらないから残業しているのに、それを減らされた時の悲しみたるや。自分を否定されたようだった。
そんなこんなで完全にAさんのことがトラウマになっていった。怒鳴られたことは5月の一回しかないが、デスクにいるとき常に横目で見られ、怒られているようで、気が休まらず、思わず外出したこともあった。
会社自体は全く悪くなかった。むしろいい会社のほうだと思う。
課の同僚もいい人ばかりだった。仲のいい先輩もできた。
残業は少なかった。
給料はまあ普通だったけど、不満ではなかった。
けれど適応障害になってしまった。
考えれば、電話対応が本当に嫌だったし(全部メールにしろ)、ろくに研修もせず客先に放り投げる課もどうかと思ったし、体当たりの訪問営業なんて意味ないだろと思ってた。
この病名はほんとうによくできているなと思う。なんたって「適応」できない「障害」だ。私は社会に適応できなかったのだ。会社に、仕事に適応できない人がこうなるんだと。自分はこんなにも情けなく、仕事ができなく、弱かったのかと思った。大学からやり直したかった。
復帰か、休職か
3か月間休み、12月末、病休の期限が切れるので、ここで復帰するか、制度的に「休職」の辞令を受けるかの選択を迫られた。めちゃくちゃ不安はあったが、精神的にはだいぶ回復していたし、いい区切りではやく復帰したかったので、復帰を希望した。というか「休職」したくなかった。
結論から言うと、間違った選択だった。
焦って復帰しようとするうちはまだ復帰するべきではない、というのは後から知った。人事から「ぶり返す人が本当に多い」とは聞いていたが、私は「復帰してみないことにはわからない」と思って復帰した。これが間違いで、復帰するなら焦りもなく余裕がある精神状態で「復帰してみよう」と前向きに思えるようになるまで復帰すべきじゃなかった。
1月上旬、時短勤務から始まり、週単位で勤務時間を伸ばしていく形で復帰が始まった。仕事は電話受けと雑用ぐらいだったが、これがなかなかしんどかった。基本やることがなく、苦手な上司が横のデスクにいるもと、ずっと監視されているような気分に苛まれた。この間、体調不良で週1くらいで休み、結果また休むことにした。辞令で「休職」という形になった。
友達にめちゃくちゃ会いづらくなる。
これは完全に内面的な問題なのだが、適応障害になってから、友達と遊ぶのがめちゃくちゃ億劫になった。これは仕事を満足にこなせなかった劣等感のせいだ。中学の同期とかなら引け目は薄いものの、東京での知り合いの飲み会にいったときの肩身の狭さったらなかった。主催の先輩がすごくいい人で心配もしてくれたので、顔だけ出そうと思っていったが、かなり辛かった。
相手は多分、何とも思ってないだろう。でも、休職してることを打ち明けることほど勇気がいったし、何ならほとんどの人には休職してることを言えていない。
自信がなくなる
人と違う。同期は普通に働いていると思うと、自分のみじめさが浮き彫りになった。
逃げるように、適応障害仲間をツイッターで探してフォローして、ちょっと安心した。けど、たいていそういうやつらには恋人がいて、恋人がいない私はさらにみじめになった。私より心の支えが1多いのに何なんだ?お前らは。
ずっと年上で、既婚で子持ちで鬱になっている人がいて、同情しつつも私はまだましかなんて思っていた。さらにみじめになった。
友達に会いたいのに、会えばなんて話せばいいのかわからなかった。昔は人の輪に入ることが得意だった。人と接することが得意だと思って営業に入った。適応障害になってから、何が得意だったのか、何ができるのかわからなくなってしまった。
他人のことが妬ましくて許せなくなる
これは本当に病気になってからなのだが、有名人のことが許せなくなった。いままで別の世界の住人くらいに思っていたのに、いまや「あいつらは好きなことであんなに有名になって、生き生きと働いていて・・・」とか、あるいは街をあるく家族やカップルを見て「いい人生だな・・・」とか「心の支えがあっていいですね・・・」とか。憎しみがMAXENDだった。
休職、そしてリワークプログラムへ
休職した後の2月。職場を離れると体調はすぐ回復した。完全にAさんへの苦手意識からくるストレスだった。実家では気分も体調も普通だったので、平日はカフェに出かけて、資格試験の勉強でもしようと思った。そこで私は「ITパスポート試験」を選んだ。月2くらいで試験を開催していたし、簡単そうだったからだ。これには2週間くらいの勉強で合格した。簡単なので手持無沙汰の人にはおススメだ。
さて、一度休職すると、手続き上、復職するために「リワークプログラム(復帰プログラム)」というものを受けなければならなかった。これは民間の会社がやっていたり、公的機関がやっていたりするらしかった。東京の会社だと予約待ちのところもあるらしく、実家に帰って田舎のプログラムを受けることにした。
3月下旬からリワークセンターに行き始めた。ここは公的機関だったので、無料だった。最初の1週間は体験通所で(通所というらしい)、そこからセンターの作った粗いカリキュラムのようなものに沿って、4か月通った。4か月というのはプログラムの標準的な長さらしい。私は最初は1か月くらいでいいだろと思っていたし、人事ともそう話していたが、人事の意向が変わり、「しっかりプログラムを受けよ」とのお達しだったので、こんなに長くなった。今となっては、このくらい必要だった。
リワークでやることは、以下のような内容だ。
・PCの軽作業(簡単な文字列の入力、資料の照合、など)
・書類の軽作業(電卓での計算、資料の検索、など)
・立って軽作業(物流)
・ストレス対処講習、グループワーク
・リワークでやったことの報告書(会社に定期的に報告する)
ストレス対処講習
どの作業もおそらく大学出て働いた人なら、簡単だと思う。個人的にも会社的にも重要視していたのは「ストレス対処」だが、これに関してはあまり満足いかなかった。
というのも、このセンター自体が週4日、午前と午後の2コマが分かれて1週間で7~8コマ、そのうちストレス対処の時間は1コマしかなかった。しかも、講習が全部で7回くらいしかないため、通い始めて2か月くらいで講習を受け終わってしまった。他の時間はワードを劣化させたような入力作業と、前時代的な書類筆記作業だったので、ほぼ受けている意味を感じなかった。
さて、重要な「ストレス対処」で何をしたか。ひと言でいうと「認知行動療法」を学んだ。体験整理やコラムシートを作成した。「自分がストレスを受けたときに、こういう思考に陥りがち(思考の癖)で悪循環に陥るので、別の考え方や受け止め方があるんだよ」ということを学ぶのだ。
例えば「朝、最寄り駅で上司に挨拶したが、無視された」という事例があったとしよう。このとき、私は「昨日なんかやらかしたか・・・」と不安になり、ストレスに陥ってしまうが、こんなときに「混雑してたし聞こえなかったかな、会社着いたらまた挨拶してみよう」とストレスを減らせるように考えられるか、ということだ。
ぶっちゃけ、これはかなり実践が難しく、思考の癖を変えるということは、つまり性格を変えねばならないのでは、としか思えなかった。
ストレスコーピング
これは「ストレスへの対応」という意味で、まんまどうする受けたらどうするかってことを考えた。例えば、
・カラオケにいく
・おいしいものをたべる
といった、行動単位のものから、
・上司に叱られた。けど、私自身を否定しているわけでなし、挽回することに全力を注げば大丈夫だろう
もしくは
・ふざけんなバカ上司、俺が正しいんだ。後で先輩に愚痴ろう。
など、普段何気なく行っている思考単位のコーピングもある。
コーピングを多く持ち、無意識で行っている人が、普通に働けている人なんだと思う。認知行動療法といい、大仰な名前がついているが、こんなことは無意識でできている人は大勢いるし、だから大勢の人は普通に働いている。そう思うと、自分の性格が社会に向いてなくて、なるべくして適応障害になったんだなという気すらしてきた。
おすすめの本
最後の3週間くらいは、ほかの作業せずに認知行動療法のワークノートや本を読んだ。おすすめの本を載せておく。
水島広子さん
これは精神がきつくなって、自分が嫌いになってるひとにはすごくいい本だと思う。辛いのは、それなりの傷を負っているから、それをまず受け止めようってところから始まる。自分が情けなくなるのは、みんな同じなんだなと思える。
伊藤絵美さん
これはがちがちのワークブック。ドリル。
これは、実際鬱になったサラリーマンが書いた本。東京のリワーク施設に通った話が書いてあって、地方の施設に通った身としては面白かった。といっても半分くらいしか読んでない。
リワークプログラムを受けて良かったこと
・家で過ごしがちだった生活・日々を、会社基準に矯正できる。
・家族以外の人と交流する。話す。
・認知行動療法のことを知れた。
悪かったこと
・ストレス対処の講習は、施設によって充実度がまちまちであろうこと
・カリキュラムも、うちはほぼフリーで、自分で組み立てた。もうちょっとないのか。
・ストレス対処講習以外は、あまり受ける意味がなかった。
ここまでが休職してから今日までの流れだ。
都市圏と地方のリワーク施設の違い
おそらく
・数が都市圏のが多い(メンタルクリニックがやってることが多い)
・都市圏のが予約が多い(患者も多いから)
・都市圏のがしっかりしてそう
基本的には週4~5日で10~15時。しっかりやってる施設はここから活動時間をフルタイムの9~18時に近づけていくと思う。
やる作業はあまり変わらないかもしれないが、公的機関より民間のほうが、運動とかいろいろやれると思う。
おわりに
あっというまに4か月たち、復職だ。ここ1か月くらいは、会社に戻って頑張ってみようという気持ちが強くなっていた。体調も、もうずいぶん前から回復していたので、主治医と産業医からは復職可能の診断が下りた。不安はあるが、部署もかわるので、また1からやってみようと思う。
ここまでネガティブな内容が多いし、書いてて胃が痛くなってきたことじたい、コーピングを間違っている感もある。けど、適応障害になって唯一よかった点がある。それは「ひとの痛みがわかる」ようになったことだ。私はもう一生、鬱の人を馬鹿にできないし、見下せない。できれば手を差し伸べたいし、優しい言葉をかけたい。他人が妬ましくて許せなくなったこともあったけど、こういう人間もいるんだと許容できるようになった。こういう選択もしていいんだ。
まじで誰もがなりうる「鬱」
私は鬱の手前ですんでいるが、先日こんなことがあった。
会社の産業医面談の日だった。事務所に行って待っていると、隣の部署の課長が入ってきた。
「まさか自分がこんなことになるなんて・・・」
本のような定型句を放った。私はびっくりした。まさかこの人も、と。そうして、本当の実感として「鬱」はだれもがなるんだなと思った。